投稿日:2018-10-24 府中 朝カフェの会
9/2 第275回府中朝カフェの会は、横浜ロイヤルパーク宿泊のシェア。
本日の府中朝カフェの会は、じゃらんや三越伊勢丹旅行券を使った横浜ロイヤルパークホテル宿泊のシェアが有りました。
・朝食付きで、62-65階に泊まれ、海側で部屋も広いので、三越伊勢丹旅行券10800円が一番お得である。
・じゃらんで早期割引を使って宿泊すると13000円/2人で宿泊出来るが、海側でもなく部屋も狭い。
・ロイヤルパークは、1回泊まると顧客登録されて、チェックアウトを1時間遅らせてくれる。
・ロイヤルパークホテルに宿泊すると使えるランドマークプラザの割引券を使うと、昼も夜も割引を得られる。
府中朝カフェの会でも、高級ホテル宿泊の動向を注視していきたいです。
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なぎさの媚薬
「押し倒す。股を割って、頭をこじ入れた。
聖子は「やあん」と甘えた声を上げ、自分から哲也の舌を向かえる様に両脚を手で持ち上げ、尻を浮かせた。
縮れた薄い陰毛が、ちりちりと鼻の頭を撫でる。舌を動かした。
谷間を、下から上へ、すくう様に、唾液で濡れた陰毛が肌に張り付き、舌先は谷間の輪郭をくっきりと感じ取る。
ボディーソープの香りの奥から、微かな汗の匂いが立ち上る。
「スカート邪魔じゃないですか?」「・・穿いたままで良い」聖子の腰に手をあてがって、尻を更に高く持ち上げた。
舌を大きく動かした。谷間の端から端まで--肛門の周りの襞にも、触れた。
ペニスが勃起していくのが分かる。今度は大丈夫だ。根元から亀頭の先端まで力がみなぎっている。
谷間の上の端に舌が触れる。こりこりとした粒が、ある。
唇をすぼめて吸うと、聖子は「あんっ」と短く叫んで体を反らした。
尻をベッドに下ろす。体を起こし、トレーナーの上から乳房を揉んだ。
ブラジャーを着けていない乳房は柔らかくひしゃげていたが、乳首はトレーナーの布越しにもはっきりと見て取れるほど尖っている。
トレーナーを捲る。脇腹と胸を剥き出しにして、顔を隠したところで手を止めた。乳首をしゃぶり、
摘んで、綺麗に手入れしてある腋をを舌で擦る様に舐めていく。聖子の顔の前にペニスをかざした。
「お客さん、青春、欲求不満だたんでしょ」と聖子は笑って、ペニスの裏に下を這わせていった。」
重松清
足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想
「また足利氏と北条氏との縁戚関係は、源頼朝の命によって義兼が北条時政の娘をめとった事に始まるが、
以後も両氏は代々血縁関係によって強固に結ばれている。
具体的にいうと、義兼より尊氏に至る七代の足利当主はいずれも北条一門から正室を迎えている。
この様な縁戚関係やそれにともなう北条氏よりの厚遇によって、足利氏の地位は安定してはいたが、
やがて鎌倉幕府が得宗専制体制への傾斜を強めてくると、その地位は相対的に低下していったものと考えられる。
尊氏の祖父家時は三代ののちに天下を取るという悲願をかけて自殺したと伝えられる。
この伝承についてはあとづけであるとか今日疑問点も出されているが、
家時自殺の背景に北条得宗の独裁化があること自体否定することはできまい。
得宗北条高時はよもや足利尊氏が背く事はあるまいとタカをくくっていたものの、
尊氏の心中にはそれを越えるものが芽生えていたものと見なければならない。
鎌倉末期に閉塞状況にあった足利氏が起死回生のチャンスをうかがっていた事は、想像に難くない。
この様に見ると、鎌倉御家人足利尊氏が元弘の乱の最終場面で幕府側から倒幕側へ寝返ったのは
けっして突発的な行動ではなく、長い足利氏の北条氏に対する雌伏の時代を踏まえれば、
むしろ理の当然でさえあったのである。」
森茂暁
エロスと「わいせつ」のあいだ 表現と規制の戦後攻防史
「そもそもは江戸時代にまでさかのぼります。東海道の宿場である川崎宿には飯盛り女がいて悲しい思いもしていました。
その人たちがかなまら様に性病除けにお参りをしていたのです。
地べた祭と呼んで、ゴザを敷いて食事をしながらタケノコの様に芽吹く力を
もらいたいという祈りを込めて行っていた様です。
現在のかなえら祭として復活したのは昭和50年です。
ほかの神社でも性のお祭をしていたので、若宮八幡宮でもしようということになったのです。
昔やっていたのだから、また始めようよ、という事です。
祭の中心となったのは、この11月1日に行われる鞴祭の関係者です。鉄工関係の方達が集まりました。
地べた祭は、この鞴祭と一対というイメージでした。
私が博彦宮司と結婚し、若宮八幡宮に来た翌年のことです。
ゴザを敷いて地べたに円になって座りながら呑んだり食べたりして一夜を楽しむ訳です。
木で作った男根を回して、触りながらおまじないというか、子孫繁栄を祈念したりしながら、直会ですね。
江戸時代と同じ様に地べた祭と名付けました。かなまら祭りは、
今では5万人が集まりますが、当初はわずか10人くらいでした。
周囲も、なんか若宮さんで変なことをやっているよ、という受け止め方で、余り来なかったのです。
実行委員会形式で行っていたので、最初は氏子さんたちの参加さえ無かった位ですから。
始まった数年後にベルさんという日本人について詳しく調べている米国人が
ホテルで配布される外国人向けの新聞記事に、地べた祭について紹介した事が
きっかけで多くの外国人が訪れる様になりました。」
園田寿
更に、盛り上げますよ~。